更新日:2018年12月3日(月)
海辺の街に生まれ育った私ですが、子供の頃から水が苦手でした。小学校四年生まで泳ぐことができず、今でも泳ぐというよりは、浮かぶとか漂うというほうが近いと思います。クロールなぞ挑戦しようものならば無駄に力が入って、体の進む方向は前ではなく、下へ下へ。全力でクロールしている私の横を、遠泳している平泳ぎの人々が悠々と追い抜いてゆく有様ですから。なにせ中学校にはプールがなく、高校は水泳部以外はプールを使えないという学校でしたから、自然と泳ぐという行為とは縁遠くなってしまったのです。
それでも海とは縁が切れてしまった訳ではありませんでした。泳ぐのではない磯遊びでは小魚やカニやヤドカリ、海辺の小さな生き物たちと戯れるのは時間を忘れる楽しさでしたし、花火大会や魚釣りで海を訪れる機会も多くありました。
そんな海の想い出のさまざまを、ドビュッシー作曲 交響詩『海』を聴きながら、とりとめもなく思い出していました。海の風景を思い描くのか、波の感触か、それとも風の肌ざわりか……。聴く人によってさまざまでしょうし、どれかがたったひとつの正解でもなければ、海とは関係なく純粋な音楽として耳を傾ける人がいるかもしれません。海も音楽も、人間の思いなど何も言わずにすべてを包み込んでくれる、そんな大きさを持っている点は共通している気がしますね。
――ふだん寄席の高座にあまりかからない根多なのですが、海の描写などのスケールの大きさは、他の落語にはない独特のものが。雲助師匠の悠揚迫らぬ高座ぶりがとても似合っているんですよ。