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ダルトン・トランボ

ダルトン・トランボ

※本ページは、人物/団体の名前でWikipedia、Google画像、YouTube動画検索等を行い、その結果を自動的に取得・表示しています。

 

Wikipedia

ダルトン・トランボドルトン・トランボとも表記、Dalton Trumbo, 1905年12月9日 - 1976年9月10日)は、アメリカ合衆国の脚本家、映画監督、小説家。アメリカで1940年代に起こった赤狩りに反対したいわゆるハリウッド・テンの一人。

迫害期にはベン・L・ペリー(Ben L. Perry)、ロバート・リッチ(Robert Rich)などのペンネームで活動し、またイアン・マクレラン・ハンター(Ian McLellan Hunter)の名義を借用したこともある。

プロフィール

生い立ち

アメリカ合衆国コロラド州モントローズに生まれた。貧しい家庭で育ち、高校時代から地元の日刊紙の記者などのアルバイトを経験し、弁論大会では優秀な成績を残した。1924年にコロラド大学に入学するが、父親の病気のために学費が払えず実家に戻った。

家計を支えるためにパン工場で8年間働き、小説家を志して作品を書きながら、酒の密売もしていた。密売人としての経験を書いた記事が『ヴァニティ・フェア』に掲載されるなど、編集者から注目されるようになり、映画評論家、編集者としての仕事を得た。

脚本家へ

小説は書き続けていたが出版される見込みが無いため、職を得ようと知人の紹介でワーナー・ブラザースの脚本部に採用された。脚本家としては1936年に2本の映画が公開されデビューした。脚本家としていくつもの会社を渡り歩き、多数の脚本を手がける一方で小説の執筆も続け、1939年には小説『ジョニーは戦場へ行った』を出版した。

『ジョニーは戦場へ行った』(Johnny Got His Gun)は負傷兵を描いた小説で、タイトルは第一次世界大戦の志願兵募集キャッチフレーズ「ジョニーよ銃を取れ」(Johnny Get Your Gun)に対する皮肉と思われる。

この本は第二次世界大戦中には戦争支持派から度重なる脅迫を受ける一方で、反ユダヤ主義者やファシストのグループからは早期講和を目指すプロパガンダに利用され、そのような読者からは何通もの手紙が送られてきた。トランボは連邦捜査局(FBI)に通報するが、FBIは右翼グループからの手紙ではなく、トランボの思想や活動について取り調べを行った。トランボは戦争支持へと転換したとFBIに手紙で抗議した。『ジョニーは戦場へ行った』は戦後になってから復刊され、さらに朝鮮戦争時に再度絶版となり、休戦後復刊された。

脚本家としては、1940年の『恋愛手帖』でアカデミー脚色賞にノミネートされ、『東京上空三十秒』『緑のそよ風』など多数の脚本を手がけて評価され、着実にキャリアを積んでいた。

ハリウッド・テン

1943年にアメリカ共産党に入党。戦時下の共産党はアメリカと戦争を強く支持する姿勢で、約8万人の最高党員数を記録していた時期だった。第二次世界大戦終結後の東西対立の激化の中、後に「赤狩り(マッカーシズム)」と呼ばれる指導弾圧運動が起こり、1947年10月20日、ハリウッド映画界の著名人19人が反共キャンペーン下院非米活動委員会による第1回聴聞会に召喚され、その中にはトランボも含まれていた。

当時のハリウッドにはジョン・ウェインらを筆頭に「アメリカの理想を守るための映画同盟」という組織が設立され、非米活動委員会への協力が推進されていた。聴聞会でトランボは「あなたは共産党員か、あるいは、かつてそうであったか」などを問われたが、アメリカ合衆国憲法修正一条(議会は言論の自由を制限する法律を作ってはいけないという原則)を理由に証言を拒んだ。同様に証言を拒んだ10人が議会侮辱罪を言い渡され、禁固刑の実刑判決を処されることになった。この10人が後に「ハリウッド・テン」と呼ばれることになった。

1948年には共産党を離党し、ハリウッド・テンの実質的なリーダーとして上訴を目指して活動していたが、1949年11月に上訴請求が棄却された。収監前に『密航巡査』『カウボーイ』などの脚本や原案を書いたが、政治上好ましくない人物の名前がクレジットから外せるとされていたため、トランボの名前が無い作品もある。


 
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