ぜんじろう

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ぜんじろう(1968年1月30日 - )は、日本のお笑いタレント。本名、金谷 善二郎(かなたに ぜんじろう)。

兵庫県姫路市出身。吉本興業所属。兵庫県立姫路南高等学校卒業、大阪芸術大学芸術学部デザイン学科中退。上岡龍太郎の弟子。

来歴

デビュー前

高校在学時、「親元から離れたい」という思いがあり、仕送りを貰いながら、独り暮らしのできる生活環境を望んで、大学進学を希望。大阪芸術大学デザイン学科を受験したが、高校時の成績は、451人中451番であった為、本人も合格するとは真剣に思っておらず、入試の日まで、大学がどこにあるのかも知らなかった。その為か、入試会場に遅刻する事になる。 花瓶を描くという実技試験の内容に対し、「なんかどうでもええわ。ようわからんし、適当に描いとこ」と花瓶のみならず、教室全体までも絵にして提出した。だが、この適当な行為が良い方向に転じる。

面接試験時、その絵を観た面接官教授から「なぜ、周りの風景も書いたのか?」と問われ、「見る物全てが芸術ですから」と、咄嗟に、適当なそれらしい言葉でかえした。 すると、その答えに納得した様子の教授から「いつから、絵を?」と尋ねられ、「中2の時スペインに行ってからです」という嘘で答えた。 教授は「私と同じだ!」と驚き、面接試験は合格となり、同校の入学試験に合格したという。

しかし、この口ひとつで勝ち取った大学合格も、同校を入学後、わずか2日で退学している。

本人のインタビューによると、「ハナからデザインに興味などないので、大学に通う気はなかったんです。大阪芸大が、あんな山の中にある事に驚きましたしね。親が大学に支払う授業料も欲しくなって、自分の懐に入るように細工してました。おかげで、仕送りも含めて、結構なお金を持ってたんです。親にバレるまで、悠々自適の生活でした。ヒドイ話ですけどね」との事である。

その悠々自適生活の時期、大阪にて友人と遊んでいた時、偶然上岡龍太郎を見かけたのだが、ぜんじろうとその友人は、上岡を浜村淳と間違えていた。 上岡をチラチラと見ながら「浜村淳や」「あれ? 浜村淳とちゃうんちゃうか?」などと言っているうちに、その様子を見かねた上岡の方から「君ら、僕と握手したいんか?」と声を掛けてきた。これが上岡との初めての出会いであった。

その後また偶然上岡に会う機会があり、「また君か。これは何かの縁やな」とお茶に誘われ、一緒にお茶を飲む事になる。極限の緊張の中、ウケ狙いで上岡に「弟子にして下さい」と言った所、上岡は「ええよ」と承諾した。 「断られるだろうと思って言ったのに、何も知らん僕みたいなのを受け入れてくれた。感激して、そのまま、本当に弟子にして頂いたんです」というのが、ぜんじろうの語る“上岡の弟子になった経緯”である。 

若手時代

弟子修行時代を経て、吉本興業に所属。関西ローカルのテレビ番組『気分はジャマイカ』に出演。この当時は、自分を吉本にスカウトした人物からの指示でラッキーぜんじろうと名乗らされていた。

その後、ぜんじろうに改名し、同事務所の月亭かなめと漫才コンビかなめ・ぜんじろうを結成。コンビ結成から、わずか4日後に開催された1988年、第9回今宮子供えびすマンザイ新人コンクールに出場し、福笑い大賞を受賞した。

翌年の1989年、芸人の登竜門である第10回ABCお笑いグランプリに出場。優勝候補大本命だった130R(板尾創路・ほんこん)を押しのけて、最優秀新人賞を受賞し、関西若手芸人のトップグループに位置した。 林正之助吉本興業会長が、この生放送の彼らの漫才を観て「エンタツ・アチャコの再来じゃ!」とまでに絶賛した。 その流れで、1989年、第24回上方漫才大賞 新人奨励賞を受賞。なお、この年度の上方漫才大賞受賞者はダウンタウンで、奨励賞はトミーズであった。 同年の第18回上方お笑い大賞では、銀賞を受賞。程なくして、かなめ・ぜんじろうは解散した。解散理由は、急激に成功した反動で、かなめが神経を疲労させた為である。ぜんじろうは、再びピン芸人としての活動を余儀なくされた。

コンビ解散後は、深夜のラジオ番組の仕事がメインになった。しかし、当時レギュラーだった深夜ラジオ番組『ぜんじろうの真夜なかん!かん!』の中で、彼独自の過激な笑いを追及した結果、共演者や制作スタッフが付いていけずに、続々と辞めていくという事態を招き、次第に事務所との間に溝が出来ていってしまう。また、ラジオ番組の仕事と並行して、心斎橋筋2丁目劇場のステージにも出ていたが、これは果てしなく難しい舞台であった。 2丁目劇場の客層筋は、主に若い女性であったが、彼女達は、ダウンタウンはもとより、ダウンタウンと絡む事のある芸人だけが目当てで、その他の芸人に対して、客席から、あからさまに「どうでもええわ、コイツら」という態度をとった。 その客達の態度に憤慨したぜんじろうは、ステージ上で不遇の扱いを受けた芸人同士によるユニットしねしね団を発案、結成する。これが後に、ナインティナインや雨上がり決死隊など、テレビ界を席巻する人気者達のいた集団吉本印天然素材へと発展するのだが、ダンスがメインのアイドル芸人グループとして売り出し始めた事務所の方針に異議を唱えた結果、ぜんじろうは、天素のメンバーから外された。

その後は、再びラジオ番組の仕事のみという生活に戻ったが、事務所との溝はそのままであった。その不遇を見かねた大崎洋の薦めにより、以後しばらくラッパーとして活動する。月亭可朝のコミックソング「嘆きのボイン」のカバーに携わったり、ラジオ番組のヘビーリスナーに、外国人タレントを呼ぶイベント会社の人物がいた関係から、アイス・キューブの前座を務めたりするなど、稀有な経験をしている。

全国区進出

1992年秋、突如毎日放送から関西ローカルのテレビ番組『テレビのツボ』の司会の話が舞い込んできた。放送時間は深夜で、超低予算、破格に安いギャラという悪条件を跳ね返して、大桃美代子や、藤岡久美子とコンビを組んで、司会者として活動。関西一円で人気を博す番組になる。有名どころでは、若き日の藤井隆も出演していた。 この成功を受けて、吉本興業と毎日放送から「平成の明石家さんま」という触れ込みで売り出されるようになり、以後はテレビ番組の出演が増え、名実ともに売れっ子になった。レギュラーは17本。彼の知名度が、関西で高いのは、この時の活躍が華々しかったからである。


 
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