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井上陽水

井上陽水

※本ページは、人物/団体の名前でWikipedia、Google画像、YouTube動画検索等を行い、その結果を自動的に取得・表示しています。

 

Wikipedia

井上 陽水(いのうえ ようすい、1948年〈昭和23年〉8月30日 - )は、日本のシンガーソングライター。本名は、表記は同じで読みが「いのうえ あきみ」。旧芸名:アンドレ・カンドレ。福岡県嘉穂郡幸袋町(現:福岡県飯塚市幸袋)生まれ・福岡県田川郡糸田町育ち。血液型はAB型。身長180cm。

概要

1969年に「アンドレ・カンドレ」としてデビュー。1971年に本名の井上陽水として再デビュー。1970年代には吉田拓郎と並んでフォーク、ニュー・ミュージック界を牽引。その後も現在に至るまで第一線で活躍を続ける、日本を代表するシンガー・ソングライターの一人。2人目の妻・石川セリとの間に1男2女をもうける。長女は作詞家・歌手の依布サラサ(本名・井上ニサ)。

本名は『あきみ』と読むが、吉田拓郎を意識したレコード会社が『拓郎(たくろう)のように陽水(ようすい)にしよう』と言い出し、本人は『そうですか』と受け入れた。

経歴

生い立ち

1948年(昭和23年)8月30日、福岡県田川郡糸田町中糸田に生まれる。本籍地は高知県幡多郡佐賀町で、佐賀町町役場に提出された出生届には「陽水」の下に「あきみ」と振り仮名が付いている。

父は高知県幡多郡佐賀町(現:黒潮町)出身の元軍医井上 若水(いのうえ わかみ、−1972年6月) 。若水の幼少期の井上家は大きな網元で広い山林を持つ資産家であった。しかし不漁続きとなり、昭和初期には没落。若水は子供ながら一人神戸へ旅立ち、キリスト教の伝道関係の職に就き勉強を続ける。苦学の末に高等専門学校卒業の資格を得る。その後、神戸で金属工芸の技術者として働くが、やがて朝鮮総督府に勤務する兄から人手の足りない福祉・医療関係の仕事に誘われ、1940年に朝鮮(京城(現在のソウル))へ渡る。ここでの経験がのちに開業歯科医の免許取得に役立つ。間もなく、同じ歯科医を兄弟・親戚に持つ母・フジと知り合い結婚。南下してくるソ連軍から逃れるため、フジはやっとの思いで先に帰国。開業歯科医をしていたフジの兄の地元の福岡県直方市にたどり着く。追って父が引き揚げる。若水は引き揚げ後は炭鉱で働いていたが、陽水が生まれてまもなく、フジの兄の意見も参考に隣接する糸田町で歯科医院を開業する。兄弟姉妹は姉1人、妹1人。

1953年、糸田町に引っ越す。田川は何も縁のない土地で、ずっと"よそ者"意識があったという。糸田小学校、糸田中学校、西田川高校と進学。

小学校時代、子供会や婦人会の集まりで歌わせられることが多々あり、当時から歌がうまいと褒められていた。またこの頃から、8歳上の姉の影響でプラターズやエルヴィス・プレスリーなど洋楽を聴くようになり、ヒットパレード系のラジオに熱中するようになる。

1963年、中学3年の時に小島正雄のラジオ番組で紹介された「プリーズ・プリーズ・ミー」に衝撃を受け、以降ビートルズに熱中する。高校時代はビートルズ狂いと周りから呼ばれ、数人の仲間と一日中歌いまくり、休日には(当時出始めの)オープンリールのテープレコーダーでその歌を録音するなど、ビートルズ漬けの生活を送っており、仲間内のみならず町内でも生粋の音楽狂として名が知られていた。

家業を継いで歯科医になることを期待されていたため、1967年、九州歯科大学を受験するも失敗し、予備校に通い始める。この年は小倉育英館に通ったが、翌年には九州英数学舘に変える。二浪目の1969年「帰って来たヨッパライ」(ザ・フォーク・クルセダーズ)を深夜放送で聞き、自らも高校時代に歌を録音する際に同じような早回しテクニックで遊んでいた経験 から、「これなら自分にもできる」「音楽でひとやま当てたい」と思ったのが曲を作り始めたきっかけ。ギターを見よう見まねで始める。1968年、再度の受験にも失敗する。1969年、3度目の受験に失敗し、大学進学を諦めた。その後「東京で勉強して大学入学を目指す。」と父に伝え上京するが歌手となるための活動に専念し、受験活動は行っていなかった。

アンドレ・カンドレ時代

1969年、RKB毎日放送のラジオ番組『スマッシュ!!11』が放送開始される。この番組には視聴者が作った音楽を流すコーナーがあり、それを知った陽水は12弦ギターを使って「カンドレ・マンドレ」を自宅録音(テープレコーダーを二つ使った多重録音の擬似弾き語り)し、4月16日、テープをRKB毎日に持ち込む。『スマッシュ!!11』のディレクターの野見山実は、録音を聴きすっかり興奮した。陽気だが何か寂しげなところがあり、その発想に驚嘆した。このとき陽水は「マンドレ」という芸名を考えていたが、野見山が難色を示し(「マン」が女性器を連想させるという理由で)芸名は「アンドレ・カンドレ」に決まる。「カンドレ・マンドレ」は『スマッシュ!!11』で放送され、数多くのリクエストを受け、中には「生の声を聴きたい」というものもあった。ただしリクエストの大半は、陽水が友人(主に浪人仲間)にはがきを配ってリクエストを出すよう指令したためのものだったという。野見山は彼らとの比較で、陽水の曲には非常に高度なものが内在していることに気付き、その将来性を買ってCBSソニーの中曽根晧二宛に手紙で送るとともに、新聞記者にも陽水に対する考えを隠すことなく話した。中曽根の反応は早く、当時としては異色な面白さだとして、発売を急いだ。当時、CBSソニーはカルメン・マキの「時には母のない子のように」のヒットの余勢をかって、さらなる一発を狙っていた。躊躇していては他社に取られる恐れがあったため、会社側は中曽根にすぐに福岡へ迎えに行くよう指示した。両親は陽水の上京には反対したが、陽水の強い信念に父は「1曲吹き込んだら帰ってくるんだな。音楽がダメでもお前には別の生きる道がある」と伝えた。

放送後、RKBのスタッフからホリプロを紹介され、1969年7月初旬にレコーディングのため福岡市から上京。「カンドレ・マンドレ」を改めてレコーディングし、同年9月1日、CBSソニー(現:ソニー・ミュージックレコーズ)からアンドレ・カンドレとして同曲でデビュー。演奏は六文銭、編曲は小室等が担当したが、ほとんど注目されず、続く「ビューティフル・ワンダフル・バーズ」も、松山猛と加藤和彦から楽曲提供を受けた「花にさえ、鳥にさえ」(1970年)も不振に終わり、シングル3枚でアンドレ・カンドレとしての活動は終わることになった。以後、ポリドール移籍までの間は、本人も語ろうとしない空白の1年間となる。当時は、麻雀とパチンコに明け暮れており、仕事はあっても月2日位であったと後に語っている。

ビートルズ狂いの経緯もあり、本人は自らをフォーク歌手とは全く思っていなかったが、当時一般には「ギターを持って歌う歌手はフォーク歌手」として認識されていたため、フォーク歌手的な扱いを受けることが多く、営業先で嫌な目にあうことがしばしばあり、これが後にホリプロから独立する遠因になった。


 
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