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北條秀司

北條秀司

※本ページは、人物/団体の名前でWikipedia、Google画像、YouTube動画検索等を行い、その結果を自動的に取得・表示しています。

 

Wikipedia

北條 秀司(ほうじょう ひでじ、新字体:北条、1902年(明治35年)11月7日 - 1996年(平成8年)5月19日)は、劇作家、演出家、著述家。本名:飯野 秀二(いいの ひでじ)。

略歴・業績

大阪市西区西長堀生まれ。

大阪市立甲種商業学校(現大阪市立天王寺商業高等学校)予科に進む。同校本科には進まず、1920年に日本電力に入社。同社で働きながら、関西大学専門部文学科(夜間)を卒業。

商業学校在学中の1919年に、室町銀之助の筆名で宝塚少女歌劇の第5回脚本公募に応募し、一等に入選する。1920年7月、宝塚公会堂劇場で入選脚本が「コロンブスの遠征」として上演された。

1926年、久松一声の誘いで宝塚歌劇団に入社の話があったが、面接での宝塚幹部の態度が傲慢だと感じ、入社拒否。同1926年には、東京建設所に転任となり上京。1928年、日本電力と小田原電気鉄道の合併で、新たに創設された箱根登山鉄道株式会社へ出向し、小田原に居住する。事業課長として強羅ホテルの建設などを担当する。

箱根登山鉄道の社員をしながら、1933年から 劇作家を志望して、岡本綺堂に師事する。「北條秀司」の筆名は綺堂がじきじきに命名したもので、小田原の戦国大名北条氏にちなんだものである。綺堂が主催する月刊誌『舞台』に参加する。

1937年、『舞台』に発表した戯曲『表彰式前後』が新国劇で上演されて劇壇デビューし、会社員兼業の劇作家となる。1939年の綺堂の死去を機会に退社して、劇作家専業となり上京。1940年、長谷川伸に師事して、長谷川主催の脚本研究会「二十六日会」に参加。1940年、『閣下』で新潮社文藝賞受賞。1944年から、日本文学報国会の総務部長をつとめる。同年、南京で行われた第三回大東亜文学者大会に、日本側の責任者として同行参加。

戦後は、自作の多くの作品で演出も担当。

1947年、新国劇で演出も担当した辰巳柳太郎主演の『王将』が大ヒットし、2作の続編を執筆して1950年に初演。また、たびたび映画化された。劇化により1957年日本将棋連盟からアマチュア三段が与えられ、のち村田英雄の王将のヒットにより四段を与えられた。ただし、北條はふだん将棋を指すことはなく、『王将』の企画も辰巳柳太郎からもちこまれたものだった。

1948年、神奈川県鎌倉郡大船町山崎に転居する。1954年、神奈川県鎌倉市岡本へ転居。

1959年には、新国劇にて、裁判中の「松川事件」を演劇化した。

1951年、『霧の音』で毎日演劇賞、1965年、『北條秀司戯曲選集』で芸術選奨文部大臣賞、翌年読売文学賞、1973年、菊池寛賞受賞。1987年、文化功労者。ほか大谷竹次郎賞。歌舞伎、新派、新国劇、宝塚歌劇に数多くの脚本を提供し自ら演出も手掛けており、宝塚においては植田紳爾の師の一人でもあった。

大劇場商業演劇で成功した功より、演劇界の大御所として重きを成し、日本演劇協会会長(1964年から94年。退任後、名誉会長に)や国際演劇協会日本センター会長(1981年から)なども歴任、北條天皇の異名を取った。

また、1951年には、大劇場の劇作家の親睦会「鬼の会」を創設。北条以外の創設メンバーは、秋月桂太、阿木翁助、伊馬春部、池波正太郎、宇野信夫、小沢不二夫、金貝省三、上山雅輔、菊田一夫、斉藤豊吉、高橋博、知切光歳、中江良夫、二宮千尋、水木洋子、八木隆一郎、矢田弥八。

東宝のプロデューサー池野満の企画により、1960年には、劇作家の生活向上を目的として、川口松太郎、中野実、北條秀司、菊田一夫で「劇作家四人の会」を結成。

代表作に、『王将』三部作 (1947?50)、『狐と笛吹き』(1952)、『太夫(こったい)さん』(1955)、『佃の渡し』、『狐狸狐狸ばなし』、『建礼門院』などがあり、また『末摘花』『浮舟』『藤壺』など、『源氏物語』を題材にしたものも多く、その集大成は「北條源氏」と呼ばれている。

晩年は奇祭に熱中し、奇祭に関連する著書多数。


 
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