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結城一糸

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人形ならではの特性を活かした演劇空間が目の前に現れる

二国の糸あやつり人形と俳優たちが織り成す、物質と生命という普遍的テーマを孕んだ人形芝居

日本を代表する糸あやつり人形の遣い手・結城一糸が主宰する一糸座の新作『ゴーレム』は、チェコに伝わる泥人形ゴーレムの伝説をモチーフとした人形芝居。一糸座とチェコの人形遣いが手を組み、月船さらら、寺十吾といった俳優陣も加わって作り上げる異色の舞台である。古典と現代作品の両方で磨かれた一糸座の人形芝居が、やはり人形劇の伝統を守ってきたチェコの文化と、どのような化学反応を起こすのか。演劇ファンも要注目の同作について結城に聞く。

PROFILE

結城一糸(ゆうき・いっし)のプロフィール画像

● 結城一糸(ゆうき・いっし)
1948年に結城座十代目結城孫三郎の三男として生まれる。72年に三代目結城一糸を襲名。03年に結城座から独立し、05年に「江戸糸あやつり人形座」を旗揚げ。15年に「一糸座」と名を改めて現在に至る。江戸糸あやつり人形の古典作品のほか、宮沢賢治、エウリピデス、バタイユ、プレヒトなどの作品にも取り組むほか、海外でも公演を行い高評価を得ている。結城座時代にベオグラード国際演劇祭で上演した『マクベス』(演出/佐藤信)が、特別賞自治体賞を受賞。

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違和感があるからこその面白さ

――― 人形遣いが糸を操って動かす糸あやつり人形。その中でも、江戸時代から伝わる日本の糸あやつり人形は、繊細な動きによる演劇的な芝居が可能で、海外からも称賛されている。一糸座は、そんな日本独自の特徴を継承しながら、古典だけでなく新作にも意欲的に挑戦している結城座から独立・旗揚げされた団体。『ゴーレム』の見どころである人形と人間(俳優)の共演も、結城座時代から取り組んでいるスタイルの1つだ。

「一番最初はうちの親父(十代目結城孫三郎/結城座)が、榎本健一さんと一緒に『金色夜叉』をやったんです。親父が人形でお宮をやって、榎本さんが貫一。そのときは人間に近い大きさの人形だったんですけど、だんだん人形は人形の世界を、人間は人間の世界を表わすようになって、それらが同じ空間の中で共存したり反発し合ったり、ある意味では同化したり……そういうことをしながら1本の芝居をどう作れるか、ということをやってきました。フランスでジャン・ジュネの『屏風』を現地の役者と一緒に作ったときは、フランスの演出家が“空間がいびつになる”と表現していましたね。人間と人形が並び立つことの違和感と、同時にそれをどう違和感なく芝居にしていくか。その両方がテーマであり面白さでもあります」

――― 今回の『ゴーレム』は、今年1月に上演された『泣いた赤鬼』で脚本・演出を手がけた天野天街(少年王者舘)が再び参加。泥で作られた人形ゴーレムがユダヤ教の僧侶によって生命を授けられ、やがて狂暴化する……チェコに伝わるそんな伝説に基づいたグスタフ・マイリンクの小説『ゴーレム』を舞台化する。

「旧約聖書で土からアダムを作ったという話にも通じる物語ですが、物質に生命を与えるというのはまさに人形そのもの。さらにマイリンクの書いた『ゴーレム』は、主人公の男の幻想が現実と入り乱れた世界を描いています。まるで現実と無意識の世界が接ぎ木されて1本になるような作品なので、どこかで現実的なものを出す、つまり人間が必要だろうということで、いろんな役者さんに出ていただくことになりました。月船さららさんは元宝塚の方で、天野さんの作品もよく見ていてぜひ一緒にやりたいと。寺十吾さんはtsumazuki no ishiという劇団をやっていて、25年くらい前に江古田の小さな劇場へ観に行ったのを覚えています。こうして一緒にやることになるなんて、当時は全く思わなかったですけど(笑)」

――― さらにもう1つの見どころとして、日本の人形だけでなくチェコの人形も登場することが挙げられる。海外の人形との共演は初めての試みだという。

「この作品をやるのに、うちだけでは人形遣いが足りないかもしれないので、どこかで調達しなければと思っていたとき、チェコはマリオネット(糸あやつり人形)がすごく盛んだということを思い出したんです。そこで向こうにいる知り合いに相談したら、まずうちの芝居を観たいということになって、去年の5月にチェコとスロバキアで古典を上演したらすごく好評で。そのときに向こうの演出家とかいろんな人と会って、ぜひ一緒にやりましょうという話になりました」

――― 日本の人形とチェコの人形では、作りも見た目もずいぶん違う。そうした違いも、先ほど言及された違和感の面白さとして取り込んでいくのが狙いだ。

「チェコで人形を作っている林由未さんという女性が、両方の人形を作ってくれています。向こうの人形が日本と大きく違うのは、頭から針金が1本伸びていて、それで全体を支えるところ。日本は糸で吊っているだけなので柔らかい動かし方になりますが、チェコの方が少しだけ直接的で、ダイナミックに振り回すような動きもできます。もちろんどちらが優れているとかではなく、それぞれの特性が何かを生み出してくれるといいなと思っています。これをうまい具合に組み合わせて、面白く芝居にしていくのは僕ら(人形遣い)と演出家次第ですね」


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人形を自己表現の道具にしない

――― 取材時には、実際に人形を動かすところも間近で見せていただいた。ちょっと歩いて止まるだけの動きも、まるで感情があるかのように思える……まさに“役者”の動きであった。

「糸あやつり人形は、人形遣いと人形の間に糸が入ることによって、繋がりがものすごく間接的になるんです。まったく自分の思う通りにはいかないし、糸は揺らぐし、直接的なものは何一つない。そこでどうやって演劇化していくかが重要で、糸あやつり人形の面白さだと思っています。“人形の不自由なところが面白い”なんて言われることもあるのですが、人形は不自由でも何でもなくて、そうさせているのは人形遣いです。人間と同じように動けば自由なのかというとそうじゃないし、ある部分では、人形遣いの言うことを聞かないから自由なんだと言えるかもしれません。
 僕は子供の頃、親父の人形芝居が嫌いだったんです。親父もまだ若かったので、すごく感情移入して、糸や人形を自分の思い通りに従えちゃう。それを見ていて、人形が可哀想だなと思っていたんです。でも親父が60歳くらいのときに大病で死にかけたことがあって、治って病院から出てきたら、不思議なことに人形の遣い方がまるで変わっていました。人形に無理強いしなくなって、人形が動くことが本当に楽しそうに見えたんです。その後、亡くなる間際の人形の遣い方には、ある種の戯れみたいなものがありました。ヨーロッパで『マクベス夫人』をやったときには、向こうの評論家たちに“神の手”って言われましたよ。
 人形を自分の表現のための道具にするんじゃなくて、人形がそこで演技すること自体を目的化しないと、それこそ人形の自由はないし、人形を遣う意味がない。他の人形遣いから見るとちょっと変わった考え方かもしれませんが(笑)、『ゴーレム』でもそういう気持ちで人形を遣えたらいいなと思っています」

――― そんな結城の作る人形芝居には、通常の演劇を見慣れた人にも強く響く何かがあるに違いない。ぜひこの機会に足を運んでみてはいかがだろうか。

「人形と人間、チェコと日本が、ごちゃまぜになって出てくる面白さ。役者たちにも人形を使わせたいっていうアイディアもあって、みんながワーッて人形を持って街中を走り抜けるみたいなシーンも作りたいと天野さんは言っています。人形=小さいっていうイメージがありますが、人間と一緒にやるとそういうふうには感じないと思うんです。人形の微細なところと、全体としてのダイナミックなところの両方を見てもらえるんじゃないでしょうか。人形自体の動きも、人形同士のときと、人間と対峙したときでは違ってくるので、そのあたりも楽しんでいただけると思います。
 僕はもう68歳で、あと何年もやれるわけじゃないけど、守りに入ってしまったら駄目になっちゃう。演劇を作っていく人間としては、常にエネルギーを持っていないと。だからこれからも、人形が持っているポテンシャルを開いていきたいと思っています」


(取材・文&撮影:西本 勲)


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