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桂歌丸

桂歌丸

※本ページは、人物/団体の名前でWikipedia、Google画像、YouTube動画検索等を行い、その結果を自動的に取得・表示しています。

 

Wikipedia

桂 歌丸(かつら うたまる、1936年〈昭和11年〉8月14日 - 2018年〈平成30年〉7月2日)は、日本の落語家。位階は従五位。勲等は旭日小綬章。出囃子は『大漁節』。神奈川県横浜市中区真金町(現:南区真金町)出身。

公益社団法人落語芸術協会五代目会長、横浜にぎわい座二代目館長などを歴任した。

概要

神奈川県横浜市中区真金町(現:南区真金町)出身。定紋は『丸に横木瓜』。血液型はA型。横浜市立横浜商業高等学校定時制中退。

五代目古今亭今輔の門下となり、古今亭今児を名乗る。のちに四代目桂米丸の門下に移り、桂米坊を名乗った。当初は新作落語中心だったが、晩年は、廃れた演目の発掘や三遊亭圓朝作品など古典落語に重点を置いて活動していた。出囃子は『大漁節』。

社団法人である落語芸術協会に所属し、理事や副会長を歴任した。2004年に5代目会長に就任し、公益社団法人への移行後も引き続き会長を務めた。また、地元・横浜においては横浜にぎわい座の2代目館長や、横浜橋通商店街の名誉顧問を務めていた。

演芸番組『笑点』(日本テレビ)の放送開始から大喜利メンバーとして出演し、2006年(平成18年)5月21日から2016年(平成28年)5月22日まで同番組の5代目司会者を務め、同日付で終身名誉司会者に就任。没後は永世名誉司会に名称が変更された。

生涯

幼少時の生い立ち

常陸国筑波郡(現在の茨城県つくばみらい市)にルーツを持つ横浜市中区真金町の遊女屋の長男・椎名貞雄と、千葉県市原市瀬又の農家の娘・伊藤ふくの長男として生まれる。3歳で父を結核で亡くし、ふくは遊郭を手伝っていた。

歌丸が9歳のとき、戦況の悪化によりふくの実家がある千葉方面へ疎開。疎開中、横浜の空襲が起き、それをただただ見つめていたという。また、千葉への疎開中は道端の草やサツマイモばかり食べていたため、その影響で終戦以降「私ゃね、サツマイモが食えねえんだよ」とサツマイモが食べられなくなってしまったことを語っていた。さらに、父方の祖母・タネとふくはしきたりの違いなどで関係が修復不可能になり、ふくは遊郭を出てしまう。

終戦直後、疎開先に母ふくが歌丸を引き取りにきたが、2,3日後にはタネが歌丸を真金町に連れ帰った。タネが連れ帰ることを歌丸本人も嫌とは言わなかった(歌丸本人談)。タネ(1879-1953)は三重県四日市市川原町で名産品万古焼の包装紙を扱う紙卸業「紙宗」の長女で、16歳で横須賀柏木田遊郭の若葉楼で働き始め(職種は不明)、30歳で結婚、大正時代には吉原遊廓で引手茶屋「東屋」を夫とともに営んでいたが、関東大震災を機に横浜真金町の永真遊郭で周旋屋を始め、昭和9年から女郎屋「富士楼」を経営、近隣の「ローマ」、「イロハ」の女将と合わせて「真金町の三婆」と呼ばれるほどの気性の女性だった。

この空襲で生家が焼失したが、戦後すぐにタネはバラックを建て「富士楼」の経営を再開。店が繁盛したため戦後の貧しい時代にあっても食料に困ることがなく、当時高価だったラジオも持っていた。このラジオでよく聴いていた落語に影響されたことが、落語家になるきっかけとなっている。祖母に連れられてよく行った伊勢佐木町の大衆劇場『敷島座』で芝居の幕間で観た漫才にも夢中になって漫才師になることを考えたが「わがままな自分にとって二人で演芸をするのは無理かな」と思ったことも落語家を目指したきっかけの一つとなった。

小学校4年生の頃には、将来落語家になるとすでに決めており、自習の時間になると落語を演じていた。これが非常に好評で、時には他のクラスからも自習になったから落語をやってくれと要請があったほどであった。

落語家

横浜市立吉田中学校在学中に、遊郭内の永真診療所で行われた慰労会の席で、当時二つ目だった5代目春風亭柳昇の落語を聴いて、落語家になる決意を完全に固めた。


 
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