桂歌丸

※本ページは、人物/団体の名前でWikipedia、Google画像、YouTube動画検索等を行い、その結果を自動的に取得・表示しています。

 

Wikipedia

桂 歌丸(かつら うたまる、1936年〈昭和11年〉8月14日 - )は、日本の落語家。本名は椎名 巌(しいな いわお)。

神奈川県横浜市中区真金町(現:南区真金町)の出身・在住。定紋は『丸に横木瓜』。血液型はA型。横浜市立横浜商業高等学校定時制中退。

出囃子は『大漁節』。公益社団法人落語芸術協会会長(5代目)。当初は新作落語中心だったが、近年は、廃れた演目の発掘や三遊亭圓朝作品など古典落語に重点を置いて活動している。地元・横浜においては横浜にぎわい座館長(2代目)、横浜橋通商店街名誉顧問も務めている。位階勲等は旭日小綬章。

演芸番組『笑点』(日本テレビ)の放送開始から大喜利メンバーとして活躍し、2006年(平成18年)5月21日から2016年(平成28年)5月22日まで同番組の5代目司会者を務め、同日付で終身名誉司会者となった。

来歴・人物

落語家までの道

  • 生家は横浜・真金町の妓楼「富士楼」であり、間近で遊女達を見て育ったためか、女の化粧風景を描写した「化粧術」の珍芸を持つ。また、バニーガール姿、花魁姿など、女装を『笑点』で幾度も公開している。
  • 「浜っ子」であることを誇りにしており、古典落語独特の江戸ことばは多用しない。
  • 戦時中、母方の実家である千葉に疎開している最中に横浜の空襲をただただ見つめていたという。また歌丸は千葉疎開中は道端の草やサツマイモばかり食べていた為、その影響で戦後から現在に至るまで「私ゃね、サツマイモが食えねえんだよ」とサツマイモが食べられなくなってしまったことを語っている。
  • 前述の横浜空襲で生家も焼失したが、戦後すぐに祖母はバラックを建て「富士楼」の経営を再開。貧しい時代にあっても食料に困ることもなく、当時高価だったラジオも持っていた。このラジオでよく聴いていた落語に影響されたことが落語家になるきっかけとなっている。祖母に連れられてよく行った伊勢佐木町の大衆劇場『敷島座』で芝居の幕間で観た漫才にも夢中になって漫才師になることも考えたが、「わがままな自分にとって二人で演芸をするのは無理かな」と思ったことも落語家のきっかけの一つだという。小学校4年生の頃には将来落語家になるとすでに決めていた。戦後まだ青空教室だったため、小学校の時に体育の時間になると自習なので落語を演じていた。これが非常に好評で、時には隣のクラスの先生から落語をやってくれないかと要請があった。

落語家

  • 横浜市立吉田中学校在学中に、女郎屋の慰労会の席で当時二つ目だった5代目春風亭柳昇の落語を聴いて、落語家になる決意を完全に固めた。そして、NHKの出版部にいた遠縁の親戚を通じて誰に弟子入りしたらよいかを相談し、「一番面倒見の良い人だから」という理由で5代目古今亭今輔を薦められ、中学3年だった1951年(昭和26年)に入門することになる。ちなみに本人は「噺家になれさえすれば師匠は誰でも良かった」とのこと。
  • はじめに兄弟子で、後の師匠である米丸の初名であった「古今亭今児」を名乗る。その際今輔から言われたことは「歌舞伎を見ろ」。今輔によると歌舞伎を見ることは落語に活きるからだと言い、実際自ら演じる際はそのエピソードをマクラで語っている。
    • このためか、中村吉右衛門出演の歌舞伎をよく見に行くという。歌丸いわく、仕草や立振舞などを見て落語に活かすためとのこと。ちなみに、吉右衛門いわく、「歌丸師匠は歌舞伎を見るのにいい席に座っている」とし、「舞台から見ても歌丸だとすぐにわかる」らしい。ただし、両者に直接的な面識はまったくなかったとのことで、歌丸は、吉右衛門と『鬼平犯科帳』で共演していた三代目江戸家猫八に「吉右衛門のサインをもらってきてほしい」と頼んだとのことである。後に吉右衛門は、頭をなでながら「いろいろと照れ屋さん」と歌丸を評している。
  • 今輔門下から兄弟子・4代目桂米丸門下へ移籍したのは、当時芸術協会で勃発した香盤(序列)問題や、今輔が新作派なのに対し高座で古典落語ばかり演じていたことに端を発している。この一件で今児は破門状態となり、一時、ポーラ化粧品本舗のセールスマンへ転職するが、三遊亭扇馬(のちの3代目橘ノ圓)の肝いりで落語界に復帰。しかし今輔が付けた条件により兄弟子・米丸門下となった(米丸も「浜っ子」である)。なお歌丸の著書によれば新師匠の米丸からは入門に際して寄席の初日と中日には必ず今輔宅に顔を出すことを言いつけられたという。そのおかげで今輔とは破門以前と同様の関係を維持することができ、後述のように寄席などでの真打昇進興行や口上にも今輔は出演している。
    • 一部の記事では、1961年(昭和36年)に「今輔死去に伴い兄弟子米丸門下に移籍」との表記があるが、これは誤り。米丸門下に移籍したこと自体は1961年(昭和36年)のことだが、先述のように今輔一門からの事実上の破門状態になったことによるもので、今輔死去は1976年(昭和51年)である。現に、1968年(昭和43年)に行われた『笑点』での歌丸の真打昇進披露口上では、今輔と米丸が揃って登場している。

 
取扱中の公演・チケット情報
チケット買うなら今しかない!カンフェティポイント2.5倍⇒5倍キャンペーン!