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オードリー・ヘプバーン

オードリー・ヘプバーン

※本ページは、人物/団体の名前でWikipedia、Google画像、YouTube動画検索等を行い、その結果を自動的に取得・表示しています。

 

Wikipedia

オードリー・ヘプバーン(英: Audrey Hepburn、1929年5月4日 - 1993年1月20日)は、英国人女優。ヘップバーンとも表記される。ハリウッド黄金時代に活躍した女優で、映画界ならびにファッション界のアイコンとして知られる。アメリカン・フィルム・インスティチュート(AFI)の「最も偉大な女優50選」では第3位にランクインしており、インターナショナル・ベスト・ドレッサーにも殿堂入りしている。

ヘプバーンはブリュッセルのイクセルで生まれ、幼少期をベルギー、イングランドで過ごした。オランダにも在住した経験があり、第二次世界大戦中にはドイツ軍が占領していたオランダのアーネムに住んでいたこともあった。古い資料の一部に本名を「エッダ・ファン・ヘームストラ」とするものがある。これは、戦時中にドイツ軍占領下にあったオランダで、「オードリー」という名があまりに英国風であることを心配した母エラが、自らの証明書の1つに手を加えて(EllaEddaとした)持たせた偽名である。5歳ごろからバレエを初め、アムステルダムではソニア・ガスケルのもとでバレエを習い、1948年にはマリー・ランバートにバレエを学ぶためにロンドンへと渡って、ウエスト・エンドで舞台に立った経験がある。

英国で数本の映画に出演した後に、1951年のブロードウェイ舞台作品『ジジ』で主役を演じ、1953年には『ローマの休日』でアカデミー主演女優賞を獲得した。その後も『麗しのサブリナ』(1954年)、『尼僧物語』(1959年)、『ティファニーで朝食を』(1961年)、『シャレード』(1963年)、『マイ・フェア・レディ』(1964年)、『暗くなるまで待って』(1967年)などの人気作、話題作に出演している。女優としてのヘプバーンは、映画作品ではアカデミー賞のほかに、ゴールデングローブ賞、英国アカデミー賞を受賞し、舞台作品では1954年のブロードウェイ舞台作品であるオンディーヌでトニー賞 演劇主演女優賞を受賞している。さらにヘプバーンは死後にグラミー賞とエミー賞も受賞しており、アカデミー賞、エミー賞、グラミー賞、トニー賞の受賞経験を持つ数少ない人物の一人となっている。

70年代以降ヘプバーンはたまに映画に出演するだけで、後半生の多くの時間を国際連合児童基金(ユニセフ)での仕事に捧げた。ユニセフ親善大使として1988年から1992年にはアフリカ、南米、アジアの恵まれない人々への援助活動に献身している。1992年終わりにはアメリカ合衆国における文民への最高勲章である大統領自由勲章を授与された。この大統領自由勲章受勲一カ月後の1993年に、ヘプバーンはスイスの自宅で虫垂癌のために63歳で死去した。

前半生

ヘプバーンは、1929年5月4日にベルギーの首都ブリュッセルのイクセルに生まれ、オードリー・キャスリーン・ラストンと名付けられた。

父親はオーストリア・ハンガリー帝国ボヘミアのウジツェ出身のジョゼフ・ヴィクター・アンソニー・ラストン(1889年 - 1980年)である。ジョゼフの母親はオーストリア系で、父親は英国、オーストリア系だった。ジョゼフはヘプバーンの母エラと再婚する以前に、オランダ領東インドで知り合ったオランダ人女性と結婚していたことがある。ジョゼフはヘプバーンの各伝記によって銀行家など、色々な職業にされていることがあるが、実際には一度もまともに職業に就いたことはない。ただし、趣味は一流で、13ヶ国語を話せた。

ヘプバーンの母エラ・ファン・ヘームストラ(1900年 - 1984年)はバロネスの称号を持つオランダ貴族だった。エラの父親は男爵アールノート・ファン・ヘームストラで、1910年から1920年にかけてアーネム市長を、1921年から1928年にかけてスリナム総督を務めた政治家である。エラの母親もオランダ貴族の出身だった。エラは19歳のときに、ナイト爵位を持つヘンドリク・グスターフ・アドルフ・クアレス・ファン・ユフォルトと結婚したが、1925年に離婚している。エラとヘンドリクの間には、ヘプバーンの異父兄のアールノート・ロベルト・アレクサンデル・クアレス・ファン・ユフォルト(1920年 - 1979年)と、イアン・エドハル・ブルーセ・クアレス・ファン・ユフォルト(1924年 - 2010年)の二人の男子が生まれている。

ジョゼフとエラは、1926年9月にバタヴィア(現・ジャカルタ)で結婚式を挙げた。その後二人は英国での生活を経てベルギーのイクセルへ移り住み、1929年にオードリー・ヘプバーンが生まれた。さらに一家は1932年1月にリンケベークへと移住している。ヘプバーンはベルギーで生まれたが、父ジョゼフの家系を通じて英国国籍を持っていた。

結婚後、家系図マニアだったエラは、ジョゼフの祖父(ヘプバーンの曽祖父)の妻にスコットランド女王メアリの3番目の夫である第4代ボスウェル伯ジェームズ・ヘプバーンの末裔[9] がいるのを発見し、それを機にヘプバーン=ラストンを公式に使用するようになった。そのためオードリーの戸籍上でもヘプバーンが足されることになった。1948年、ハーグの英国大使館にて発行されたヘプバーンの身分証明には“オードリー・ヘプバーン=ラストン”と書かれており、1982年以降のパスポートにはオードリー・K・ヘプバーンと書かれている。ジョゼフもオードリーも死ぬまで自分がヘプバーン家の血をひいていると信じていたが、オードリーの従兄弟の調べたところによるとジョゼフの父は祖父の2番目の妻の子供であったため、ヘプバーン家の血は本当は入っていないと書かれている伝記もある。

幼少時代と第二次世界大戦期の少女時代

ヘプバーンの両親は1930年代に英国ファシスト連合に参加し、父ジョゼフは過激なナチズムの信奉者となっていき、1935年5月に家庭を捨てて出て行った。1939年6月、正式に離婚が成立している。ジョゼフは英国に渡り、戦争が始まると逮捕されマン島で過ごした。その後1960年代になってから、当時の夫メル・ファーラーの尽力でヘプバーンは赤十字社の活動を通じて父ジョゼフとダブリンで再会することができた。その後もスイスの自宅で会っている。ヘプバーンはジョゼフが死去するまで連絡を保ち、経済的な援助を続けている。ジョゼフは愛情を表現できない人物であったが、1980年、ジョゼフが危篤状態になったとき、再度ダブリンを訪れたヘプバーンには話さなかったものの、同行したロバート・ウォルダーズには娘オードリーのことを大事に思っている、父親らしいことをしなかったことを後悔している、そして娘を誇りに思っていると伝えた。

ジョゼフが家庭を捨てた後、1935年にエラは子供たちと故郷のアーネムへと戻った。このときエラの最初の夫との間の息子たちは、母エラと暮らしていたが、デン・ハーグにいる父親のもとで過ごすことも多かった。1937年に幼いヘプバーンは英国のケントへと移住した。ヘプバーンはイーラム (Elham) という村の小さな私立女学校に入学し、またバレエにも通い始めた。第二次世界大戦が勃発する直前の1939年に、母エラは再度アーネムへの帰郷を決めた。オランダは第一次世界大戦では中立国であり、再び起ころうとしていた世界大戦でも中立を保ち、ドイツからの侵略を免れることができると思われていたためである。ヘプバーンは公立学校に編入し、1941年からはアーネム音楽院に通いウィニャ・マローヴァのもとでバレエを学んだ。1940年にドイツがオランダに侵攻し、ドイツ占領下のオランダでは、オードリーという「英国風の響きを持つ」名前は危険だと母エラは考え、ヘプバーンはエッダ・ファン・ヘームストラという偽名を名乗るようになった。1942年に、母エラの姉ミーシェと結婚していたヘプバーンお気に入りの貴族の伯父オットー・ファン・リンブルク=シュティルムが、反ドイツのレジスタンス運動に関係したとして処刑された。また、ヘプバーンの異父兄イアンは国外追放を受けてベルリンの強制労働収容所に収監されており、もう一人の異父兄アレクサンデルも弟イアンと同様に強制労働収容所に送られるところだったが、捕まる前に身を隠している。オットーが処刑された後に、エラ、ヘプバーン母娘と夫を亡くしたミーシェは、ヘプバーンの祖父アールノート・ファン・ヘームストラとともに、ヘルダーラントのフェルプ近郊へと身を寄せた。後にヘプバーンは回顧インタビューで「駅で貨車に詰め込まれて輸送されるユダヤ人たちを何度も目にしました。とくにはっきりと覚えているのが一人の少年です。青白い顔色と透き通るような金髪で、両親と共に駅のプラットフォームに立ち尽くしていました。そして、身の丈にあわない大きすぎるコートを身につけたその少年は列車の中へと呑み込まれていきました。そのときの私は少年を見届けることしか出来ない無力な子供だったのです」と語っている。

1943年ごろには、ヘプバーンはオランダの反ドイツレジスタンスのために、秘密裏にバレエの公演を行って資金稼ぎに協力していた。ヘプバーンはこのときのことを「私の踊りが終わるまで物音ひとつ立てることのない最高の観客でした」と振り返っている。連合国軍がノルマンディーに上陸しても一家の生活状況は好転せず、アーネムは連合国軍によるマーケット・ガーデン作戦の砲撃にさらされ続けた。当時のオランダの食料、燃料不足は深刻なものとなっていた。1944年にオランダ大飢饉が発生したときも、ドイツ占領下のオランダで起こった鉄道破壊などのレジスタンスによる妨害工作の報復として、物資の補給路はドイツ軍によって断たれたままだった。飢えと寒さによる死者が続出し、ヘプバーンたちはチューリップの球根を食べて飢えをしのぐ有様だった。当時のヘプバーンは何もすることがなければ絵を描いていたことがあり、少女時代のヘプバーンの絵が今も残されている。大戦中にヘプバーンは栄養失調に苦しみ、戦況が好転しオランダが解放された時には貧血、喘息、黄疸、水腫にかかっていた。ヘプバーンの回復を助けたのは、ユニセフの前身の連合国救済復興機関(UNRRA)から届いた食料と医薬品だった。ヘプバーンは後年に受けたインタビューの中で、このときに配給された物資から、砂糖を入れすぎたオートミールとコンデンスミルクを一度に平らげたおかげで激しく吐いてしまい、もう体が食べ物を受け付けなくなったと振り返っている。そして、ヘプバーンが少女時代に受けたこれらの戦争体験が、後年のユニセフへの献身につながったといえる。

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